150人のたよれる人々。

友人がシェアしていた、こんな記事を読みました。

 

 

 『人間の五感は「オンライン」だけで相手を信頼しないようにできている』

https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001351.html?fbclid=IwAR2IEToyXCu3dxx-OHKhmK1IAGAS-ZgyBWB05CtTBG0zJ7UlAW6mpfCqBdg

 

友人は、最近SNSを通してつながることが多くなったけど、信頼ってなんなんだろう、って思っていたとのこと。

 

この中に、人間は困った時に頼れる人を150人くらいもっていて、それは人間の脳の容量で決まっているんだ、というお話がでてきます。

 

150人というのは、人が記憶できる顔の数なんだそうです。

それも、自分にとって身体感覚を伴った人の顔。

 

150人?・・・、多いな、と思いました。

自分にそんなにいるかしら?・・・とも。

 

まさかの困ったときに頼れる人が150人もいたら、安心できそうですよね。

 

自分にはそんなにいないなぁ、とやや自嘲気味に思っていましたが、半日もしないうちに、

 

「そうでもないかも!」

 

と思えるようなことがありました。

 

実はちょっと一人でもんもんとしてしまった困りごとを、SNSに投稿したのですが、

共感してくれた友人たちが(これも実際に会っている身体感覚のある友人です)、シェアしてくれたり、メッセージをくれたり・・・

とにかく、私の困りごとに共感してくれたのです。

 

すごく心強く、頼りになって、私のちょっと重かった心も軽くなりました。

まだ解消にはいたっていませんが、一人ではどうしたらよいかわからなかった現実が動き始めました。

 

逆説的かもしれませんが、私がSNSを始めたのはこちらにIターンしてきてからで、そうでなければやっていなかったかもしれないと思います。

(インスタくらいはやっていたかな・・・)

 

SNSはツールの一つとして、

もともとの人間関係があるからこそ、心を寄せて行動をしてくれる方達がいた、ということなんですね。

 

この記事の中にもありましたが、

都会では人とつきあうことがコストになる、と書かれています。

 

ちょっと衝撃的ですが、

確かに、都会ではわざわざだれかの手を借りなくても、道が調べられたり、知識が得られてしまいます。

 

だけど、その分身体感覚を伴った友人は作れず、孤独になっていく・・・。

 

人口1000人の村にIターンしてきて、

山のことならこの人、薪のことならあの人、味噌のことならあの人・・・って具合に、

だれかしら思い浮かぶ人がいます。

こういうのってありますよね?

都会に住んでいた時は、行政の人の顔は全然わからなかったけど(興味もなかった^^;)、今は誰が何をしてるのかが分かる。

水道のことで困ったら、部署の名前じゃなくて、その人の顔が浮かぶ。

 こういうのって面倒なこともあるけど、その分つながりが生まれているんですね^^

 

これって、すごいことなんじゃないか、って気づきました。

 

150人になっちゃうんじゃない???

 

 新たないなかの豊かさが見えた気がしました。

 

 

そしてね、同じように私もだれかの困ったときに、思い浮かぶような顔になりたい、とも思いました。

 

ちょっと

「足が痛いな・・・」とか、

「病院いくほどでもないけど、調子がわるいな・・・」とか

「こどもの勉強みてもらいたいな・・・」とか

 

そんなときに、思い出してもらえる顔になりたいな、と思ったのです。

じぶんも。

 

今、◯◯屋さん、という肩書きが減っていますよね。なんでもコンビニで手に入っちゃいますから。

 

いなかはまだ、そういう◯◯屋さんが残っています。そういう暮らしが残っています。

 

 

今日、夫が薪ストーブ用のチェーンソーを買いに、佐久の専門店に行ってくれました。

そこはアフターケアも抜群で、すごくよく相談にのってくれて、いい買い物ができたって喜んでいました。

今はネットで何でも売っていて買えるけど、

きっとそういうお店は、お付き合いも続いて、薪ストーブ買うなら・・・って思い浮かぶお店になるんですね。

 

 

 

自分が誰かの頭に残る仕事ができたら、嬉しいですね。

 それが十分、自分の生きる意味になります^^